原作者 シャルル・ペローについて


1627年 シャルル・ペローは王立裁判所の弁護士であるピエール・ペローの7番目、末っ子としてパリで生まれました。彼は双子であったが、先に生まれた兄は生後6ヶ月で亡くなっています。26歳になると、パリの収税局長をしていた兄の第一書記となり、ルイ王朝の貴族の一員となりました。やがて、ルイ14世の財務総監、重商主義者として有名なコルベールの知遇をえて、1663年には改建築を統括する王室建築総監の要職に就きました。50歳で3人の息子と1人の娘をもうけるが、6年間の結婚生活の後、妻マリーは25歳の若さで亡くなってしまいました。54歳で公職を退き、それから5年後の1687年にアカデミー・フランセーズ会員の面前で「ルイ大王の世紀」という詩を朗読しました。ペローは当時の王であるルイ14世の治世を賛美しており、物語の端々にルイ14世を褒め称えるテーマがちりばめられています。

 

 ペローはパリに生まれ、オルレアン大学に通い、再びパリに戻ってその近郊に住み、さらにはヴェルサイユにも居住したと言われています。オルレアン大学のあるオルレアンはフランス中部に位置する町で、中世ジャンヌ・ダルクによって開放された町です。オルレアンの町を流れるロワール川は、フランス中央部を東から西へ大西洋に向かって流れていて、ロワール川のほとりには、中世の古城がたくさん存在しています。「薔薇の都オルレアン」とも呼ばれ、大学生だったペローに「眠れる森の美女」など、後に執筆する作品への影響を与えたと考えられます。

 

 ペローが生きた時代は、フランスは王政でした。王様の下には、貴族がおり、さらに騎士がいるという物語にでてくる世界が、まさに現実でした。首都はルーブル宮殿からヴェルサイユ宮殿へと引越しし、ひんぱんに夜会が催されていました。招かれた貴婦人は夕方6時から翌朝8時まで、退出する事はゆるされず、喜劇・バレエ・舞踏会・ルーレットに興じました。ペローの童話はその宮廷サロンに集まる貴婦人たちの間で盛んに朗読され、話題になっていました。この頃の貴婦人達は、いろいろな「おとぎ話」を収集したり、創作して楽しんでいました。ペローはそうした中、黒1点として昔話を採集して出版しましたが、どうやら子ども向けに書かれたという線は薄く、大きな子どもに向けて制作した可能性が高いと言われています。

 

 また、ペローが出版した童話集は英訳され、イギリスに紹介されました。この本の口絵に「コント・ド・マ・メール・ロワ」(ガチョウ母さんのお話)という文字が、壁にかかった額のようなものの中に書かれています。その「ガチョウ母さんのお話」というところを英訳し、「マザー・グース」となりました。現在「マザーグース」=童話集と捕らえる方も多いと思いますが、始まりはシャルルペローの童話集がきっかけでした。